続けて、臨床心理士のカウンセラーさんとのやり取りから考えた話。
その前に改めて言及しておきたいのだけど、
私は臨床心理士さんや今までお世話になったカウンセラーさんたちを貶したくて書いているわけではない。
私は臨床心理士さんを今でも優秀な方だと思っているし、
あえてここに腹が立った時のことや実際に言われたことなども引き合いに出して書いているのは、
自分の頭の整理のためと、自分のネガティブな感情を含めた反応から自分の価値観の輪郭を掴み取るため、
そしてその軌跡自体を自分のために残しておきたいから。
私と同じような状況の方がもしいた時のためにも残しておきたいから。
私が自惚れていて失礼だと思う人もいるだろうことを想定した上であえて書き残している。
私はカウンセリングの中で、適応障害のきっかけになった前の職場の代表の話や付き合っていた彼の話などをさせていただいていた。
私は一つの物事を、自分が納得する落とし所が見つかるまで、何年もかけて何度も何度もいろんな角度から吟味する。
代表のことも例外ではない。
「あの人がパワハラだった」
「あの人が人を使える器じゃなかった」
と言ってしまえばそこで思考は終わってしまうけれど、
私はそこから
彼女をあんなふうにさせたのはどんな要因があったのだろう?
いつからその片鱗が見えていた?
いつから歯車が狂い始めた?
もし物事がうまく運ぶ未来があったとしたら、私はもっと何かできていたんじゃないか?
と考え続けている。
その色々な可能性を考えたくて、臨床心理士さんにお話をしていた。
代表と出会って、あそこまで現実を拗らせたのは、私の人生の課題だからだ。
出されている課題をきちんと読み解かないと、私の魂の設計図からズレた選択をしてしまうから
真剣に解釈をしていかないといけない。
そして、今まさに臨床心理士さんとの出来事も、同じように何ヶ月もかけて考え続けている。
臨床心理士さんを悪者にしてしまえば、すぐにオチがついてしまうけれど、
私はそれをしたくない。
自分にも何か課題が残されているはずなんだ。
臨床心理士さんと何度も話していくうちに、先生と私は価値観が違うのだなと感じる場面が増えてきた。
彼は、代表のことを、自己愛的でかなり偏った人だと言っていた。
だから、代表との関係はうまくいかなくても不思議ではないし、そこまで気に止む必要はないと。
臨床心理士さんは、クライアントである私の幸せを考えることだけが自分の仕事だからと言っていた。
私のことを苦しめた相手の背景まで深く掘り下げて考え始めたら、キリがないのでとにかく私が悩まない方法を考えよう、といいう意味だったと思う。
その通りだと思った。
でもそこで私の価値観が浮き彫りになった。
私は、考え続けたいし、適当なところでオチをつけて終わりにしたくない。
何年でも考え続けて、深層のレイヤーをより深くまで理解したい。
そこまで臨床心理士さんに正直に伝えたが、
「考えなくていいことをあまり考えすぎないように」とアドバイスを受けた。
臨床心理士さんにも話していたけれど、私は子供の頃から物事を深く考えるから、
めんどくさがられる。
それがコンプレックスでもあった。
臨床心理士さんは「普通はそういう反応かもしれないけれど、僕は気にならないから好きなだけ話していいよ」と言っていた。でもやはり、伝わらなかった。
先生はめんどくさかったわけではないかもしれないけれど、
私にとって、考え続けることやレイヤーを深くまで把握することがどれだけ大切なのかが伝わらなかったんだ。
臨床心理士さんとの会話で、私の価値観がはっきりした。
私は、「問い」を問いのままでもっておける胆力を備えていたい。
すぐに「答え」という安心が欲しくなる不安に打ち勝てる自分でいたい。
効率よく端的に答えを出すことが正しいという、現代の男性性優位の価値観から逸脱して、
目に見えない形のない物の大切さを抱えて生きていきたい。
そんな成熟した父性を纏った女で生きていたいと思ったんだ。