「見えるもの」の扱い方

人のことが見える」というのは傲慢なのかもしれない、と思った。

見えないものについて最近書いていたけれど、

私は元々はただちょっと勘がいい人、くらいだった。

でも、昔から人の相談を聞いていると、その人がどういう過程環境で育ってきて
親や周囲に対してどういう印象を持ってきたのか、
相談された体験によってどういうふうな感情の揺れが起こったのかが、
パッと頭に浮かび言語化できた。

それを伝えると、

「何で私の家族を知らないのにわかるの?」
「何で私の考えていることがわかるの?」

と言われた。

スカウトされて相談員として働いていた時も
「まるで私の人生を見てきたみたいに見えてるんですね」と言っていただいた。

周りのカウンセラーから、「多分あなたはチャネリングができるようになるよ」って言われるようになって

そんなわけないと思った。

だんだんとチャネリングしてる人として扱われるようになってきて、戸惑った。

でも、だんだんと、今まで感じたことのないものを感じるようになり、
右脳にキーンと何か降ってきたようになってイメージが浮かぶようになって
どんどんそれが強くなった。

本で、私がした体験が、チャネリングができるようになる人が体験している前兆と全く同じことが書かれてあって、
震えた。

でも信じられなかった。

この感性を使ったまま自分の悩みを考察してカウンセリングを受けたら、
臨床心理士さんが動揺することが増え、私の感じたものを否定する発言が増えた。

私は、一旦私が見えているものを、まず自分が信じないといけないんだと思った。

でもそれを仕事にするかどうかはまた別問題だと思った。

人には自分で気が付かないといけないことがたくさんある。
というか、人生は自分で気がつきながら自分の足で生きていくものだよね。

私が見えたからと言って、相手がその道を歩むかどうかわからない。

見えたものを伝えるのは、場合によってはルール違反というか、失礼だし
見えていると思うことすら傲慢なんじゃないかと思った。

自分の力を認めたからといって、どこでも使っていいわけじゃないんだと思った。

扱い方を考えないといけない。

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