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適応障害の裏側①

ずっと書くのを躊躇していたけれど、満を持して書いていく。

私の適応障害の背景、主に親子関係以外の話について。書きづらかった話。

目次

実家で身についた空気を読む癖

適応障害になり実家に帰ってきて1年半。

改めて両親と向き合って、自分の価値観や人と関わるときの癖がどうやって身についてきたのかを再確認する日々だった。

最近はかなり過ごしやすくなり、共依存癖も抜けてきたけど、

両親は「希望を上手に口で言えない人たち」だったんだな、と改めて思った。

父は、「〜があったらよかったのにな」「どうせ俺は運が悪いから叶うはずないよな」と、遠回しに希望を匂わせる。

こちらが「そんなことないよ。欲しいんでしょ?〜したいんでしょ?」と優しく促して願いを叶えさせてあげることでなんとか関係性が保てる。
察し損ねると不機嫌になり拗ねる。

母は、今は気を付けてくれているけれど、
「〜が痛い」「〜が嫌い」という不快感だけを口にする癖があった。

こちらが「〜ということは、それをしないほうがいいんだろうな」「〜を手伝ったほうがいいんだろうな」と空気を読んで行動することが必須になる。

察し損ねたり気がつかないままでいると、「〜くらいやってよ!」と突然雷が落ちた。
母自身が「先回りしてやる」ことが得意で当たり前にできるから、
(そして自分の長所に無自覚だからこそ)

空気を読んで先回りができない人が無能に感じるのだろうと思った。

両親の地雷をいつ踏むかわからなかったから、両親の感情を読んで行動するのが上手になった。

学生時代まではそれでうまく行っていた。

海外での社会人生活

ところが社会に出て働くようになってから、人との摩擦が増えて、「自分の問題点」に気がつくようになった。

私は新卒から海外で就職した。

1社目は、外国人である日本人がいじめられる空気の会社だったので、業務中のミスが全て私のせいになった。
下手くそな英語でもとにかく自己主張をしていかないと、生き残れなかった

私は、日本に住んでいた時なら空気を読んで口にしないようなことを「主張する」練習をした。

日本でなら言わないほうがいいことを敢えて言わなければいけないのがあまりに辛かったので
当時のことはいまだによく覚えている。

その時に意見を言えるようになったことが功を奏して、
その後いろいろな会社で理不尽な目に遭っても基本的には切り抜けられるようになった。

臨床心理士さんとのすれ違い

臨床心理士のカウンセラーさんは、私のこの経験を知らない。

「知らない」と言うよりも、過去の出来事はできるだけ細かくお話ししていたつもりだったけど、
私が自分なりに学びを得てきたことが伝わらなかった気がする。

半年ほどカウンセリングを受けて
だんだんと先生の中で「私の像」が出来上がっているのではないか?と気がついた。

そしてそれがどうも実際の私とずれているような違和感を無視できなくなってきた。

私は社会に出てから、未熟さゆえの失敗をいろいろした。

前述のように、「自己主張ができない」せいで責任転嫁され成績を下げられ業務に支障をきたしてきたから、意見を言えるように練習した。

自身の態度の悪さ故、先輩や同僚とうまくいかなかった恥ずかしい経験も何度もしたから、その度に自分の傲慢さを改めた。
だんだんと人間関係は良くなった。

海外では、学校に通っていた頃からディベートの機会の多さや普段の会話などで「自分独自の意見がないとやっていけない」ということを痛感した。

日本にいた時の自分が「世間の常識」や「みんなが正しいと思っていること」「相手の感情を配慮した言動」をあたかも自分自身の本音だと思い込んでいたことに気がついた。

それからは「世間の意見」ではなく、自分の頭で考えて自分の意見を持つように務めた。
小さなことだけれど、地道な努力を要した。

私がいた世界で生きていくには、
そういう「精神の自立性」が雰囲気から醸し出されていないと
まるで相手にされず子供扱いをされることを何度も体験してきた。

気がついていなかったけれど、
私はこういった長年の目に見えない努力の積み重ねでできた自分を、誇りに思っていたのだと思う。

でも臨床心理士さんの言動から、
私がそういった経験や学びを何もしていない人物として見られているのだと感じることが増えていった。

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