現代社会と男性性:努力と結果の因果関係

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男性性軸で自分と向き合う

私のアンテナには最近、「男性性」という言葉が引っかかってきている。

私は心理学の専門家ではないけれど、自分のトラウマや悩みを解消するために必要な言葉をその都度学んでいって、自分の中で「そういうことか」と腑に落として自己解釈で使っている。

そういう前提で読んでいただきたいのだけれど、

私の中での理解はとしては、

男性性と女性性はそれぞれ同レベルの成熟度合いで育っていくもので、それがある程度成熟すると父性、母性と呼べるようになる。

きちんと成熟した母性や父性になると人を育てたり、人に良い影響を与えられる容易なるのでは?という仮説を立てている。(これはまだ輪郭程度のぼんやりとした仮説)

そして今、私の中では男性性がまだ未熟で、それは過程環境的にも育ちにくかったのが理由の一つとしてあるのではと考えている。

今年に入って父との蟠りを清算しつつあるので、それに伴って私の父性も成熟の準備ができた気がしている。

男性性優位の社会

で、ここからが本題。

私の目には、社会全体の男性性自体が、成熟した父性になる手前で留まるような構成になっているように見えている。

それはこの社会が、

結果主義であり、実利主義であり、目に見えるスペックや成果や数字で優劣が決められるのが良いという価値観が強いこと。

そしてそういった「結果」を出すために、
効率の良さや目に見える成果ばかりが重視され、個人主義に偏っていっている。

女性的な
目に見えないものや、結果より過程を重んじること、人とのつながりや感性、感情を大切にすることが
軽視されているように思う。

誤解のないように書いておくと、男性性と女性性というのは性別に関わらず誰もがもっているので、これは男女差別的な話ではない。

だが、この男性性優位で女性性が劣っているものとして浸透してしまっている価値観の象徴として、
副作用的に社会での男女の対立に発展しているような気がしてならないのだ。

副作用は色々なところに発生している。

例えば、子供の感情や完成よりも、世間一般的な価値観を重視した子育てだったり
男の人が弱さを見せられないような空気だったり

何かしらの「役割」を押し付けてしまうような空気もその派生だと思う。

目に見える結果や成果を重視してきた過去

なぜそれが気になるのかというと、私自身が今まで男性性を強化することで生き抜いてきた人だと思うからだ。

努力をして結果を出さなければ通用しないことは、この社会では常識だ。
例に漏れず私もその空気の中を生きてきた。

誰にバレていなくても、努力しなかった時間は自分が一番知っている。
思った結果が出なかった時には、「あの時間を練習や勉強に当てていれもっと良い結果が出せていたのではないか」という後悔。誰も責められない、他の誰のせいでもない自分の不甲斐なさ。

思った結果を出せなかった自分の無力さを再び感じることへの恐怖。

私たちは子供の頃からすでに、この世界は結果がものをいうのだと肌で感じ取り学んで生きてきている。

そういう環境要因もあり、私は努力をして結果を出し続けていないと不安な性格になっていった。

結果重視の生き方に強制終了がかかった

この5年で私は、数字や結果により自分のアイデンティティを築く生き方を強制終了させられた。

CAの職業を失い
都内の好立地の家を失い
貯金を失い借金を抱え
ほとんどの友人知人との関わりがなくなり
適応障害になり健康を損ない
ジムに行けなくなりボディラインが崩れ
精神を病んだことにより顔から生気がなくなり
加齢により縋るように磨いていた容姿が崩れ
自慢だったハイスペックの彼氏を失った。

私は初めから空っぽだった。
それが浮き彫りになった。

女性性を取り戻したらうまく回り始めた

私の今までを、男性性と女性性に準えて考えるとわかりやすい。

外側に貼り付けていたメッキが全て剥がされた。

私に残ったのは、こんな私を見捨てないでいてくれた少数の人たちと
絶え間なく働いている思考と感情くらいだった。

田舎にあるボロボロの実家で出迎えてくれたのは、
私の精神疾患の原因の何割かをつくった共依存の母親と、介護施設にいるアルコール依存で働けなくなった父。

そこで私にできることをするしかなかった。

私はまだ親を恨んでいたから、親子関係の見直しを徹底的にした。
親に、今までしたことがないくらいぶつかっていった。

今まで蔑ろにしていた自分を大切にするにはどうしたらいいかを真剣に考えた。

養ってもらっているなら従順にしろ
大人としての責務を果たせ
人に迷惑をかけるな
よそ様に嫌な顔をされないような見なりと態度で振る舞え
甘えるな
文句を言うな
過ぎたことをごちゃごちゃいうな
考えても仕方のないことに時間を取るな

頭の中で自分を責める声よりも、自分を優先しないといけなかった。

社会ではこういう「男性性重視の世間の声」に駆り立てられて、みんな走っている。

私はそういう価値観を捨てないと、生きていけないところまで来てしまった。

不思議なこと

今の状態は、少なくとも私が「頭で望んで」得た結果ではない。

頭ではもう少しマシな人生設計をできていたはずだった。
けれど、自分の力ではどうにもならない外的要因というのもあるものだなと思った。

ここ一年半の私は、ここまでの表現でいえば「女性性的」な生き方しかできなくなった。

今まで忠実に守ってきた
「〜しなければいけない」が本当にできなかった。

自分が今かろうじてできること、わずかに「〜したい」と思えていること

それに縋って生きることしかできない状態が続いている。

そうして過ごしていたら、思いがけないことが怒るようになっている…気がする。

5年も話していない英語が、今までどんなに勉強してもうまくならなかった部分が「放置していただけ」で上手くなってきた。

やめてから15年以上経つエレクトーンが、練習もしていないのに上手くなっている。

当時、寝る間を惜しんで練習に明け暮れて、
練習するほどに自分の「限界」を目の当たりにさせられてきたものが、

寝かせている間に上手くなった。

おそらくどちらも、一旦限界がきて寝かせている間に、
別に生活をしながら自分が少しずつ大人になって、周りを見たり学んだりしているうちに、

人を見る視点や視野、
努力で結果を出すことだけが大切、といった狭い価値観をアップデートさせているうちに、
それが英語や音楽の表現に影響したり、力みがなくなったのではないかと思う。

頭で想像できる「因果関係」だけでは、語れないものもあるのかもしれないと思った出来事だった。

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