長年、親子関係に悩み続けてきたけれど、
以前の私は親にされて辛かったことや、傷ついた自分の気持ちを人にわかって欲しかった。
わかってほしい気持ちは年々大きくなっていき
溜まった感情は、空気として私の周りにまとわりついた。
そしていつの間にか
その被害者意識的、悲観的、他責的な空気が
私の人格のように周囲に見せていたと思う。
「わかってほしい」という感情をさらに深く見つめると
- 「理想的でない今の現実や自分の人生を、それでも肯定したい」
- 「人に批判されてしまいそうな自分の本当の姿を責めないで欲しい」
- 「今の私がこういう状態であることには理由があったんだ」
と、周囲から誤解されることを恐れ、正確に理解してもらいたいという欲求があった。
私に必要だったのは人から正確に理解されることではなかった。
理想的でない、今の自分の現実を私自身が直視して
そのままの自分を認めることだった。
人が批判をしてきても「それが今の私です」と、自分の中で確信していられる自分にならなければいけなかった。
自分の中で確信していれば、言い訳する必要もなくなった。
その勇気が出ない時、自分を傷つけてきた人を悪者に仕立てあげることで、相対的に自己肯定をしようとしてしまう。
「あの人はひどい人だ」と周囲に言いたくなる時ほど、
その根底にあるのは、ただ自分を肯定したいという純粋な願いだった。
相手を悪者呼ばわりしないと、自分を善人だと思えないのは、ずるいと思った。
そもそも善人じゃないと自己肯定してはいけないの?
自分を肯定するために無自覚に人を使うのはやめようと思った。
「自分を肯定したい。でも、人から批判されそうな自分をそのまま肯定する勇気がない。」
かっこわるいよね。
その濁った欲の匂いに人は敏感だ。自分の欲に無自覚でいて、それが漏れ出てしまった時ほど、それを嗅ぎ分けた人から批判を受ける。
だから自分の言動の裏にある欲を自覚していくしかないんだ。
自分の中の無自覚な欲求と、それを歪んだ形で表現をしてしまう、
その癖を削ぎ落としていった先に残るのが、本当の自分であり、人格であり性格だと思っている。