ものすごく憧れるのに、「どうしても届かない」と
自信を根底から根こそぎ崩されるような感覚を味わう出会いをしたことがある。
追いつきたいのに、相手がすぐに見えないところへ行ってしまいそうな
どうしようもない不安
そばに居させてもらうことすらとてつもない困難を要するような
自分の存在ごと脅かされるような不安。
本当に本当に苦しかったのに、当時この悩みを誰かに理解してもらうことは叶わなかった。
この言い表しようのない不安の正体を知りたくていろいろなところに相談に行き調べ回ったが
欲しい答えを手に入れることはできなかった。
そんな私が「あの人が見ている景色を、少し感じられるようになったかもしれない」と感じたのは
その衝撃的な出会いから8年ほど経った頃だった。
今ならあの時に起こっていた違和感の正体がわかる気がする。
見ている世界のズレ
当時私が感じていた「どうしても相手に届かない感じ」は、人間力の差なのだろうか。
もう少し正確な表現をするならば「世界を見ている視点」の差なのではないかと思う。
この違和感の正体を記すのに、
あえて相手側の目線に立って書いてみたいと思う。
「ほとんどの人と話が通じない」という悩み
この地点に立っている人は、「話が通じる人が極端に少ない」という悩みを抱えているように思う。
他の同年代の同姓の人と比べても、醸し出している空気が明らかに違う。
話の内容も、視点も、物事の受け取り方も、出来事の処理の仕方も何から何まで違うように感じた。
話の趣旨が伝わらない「嫌と言ってもやめてもらえない」
この人たちが人と関わる時に悩むのは、話の本意が伝わらないことが挙げられる。
例えばこの人たちが人間関係でモヤモヤするのは
「嫌だと言っていることの本意が伝わらない=本質的にはやめてもらえない」ということではないだろうか。
相手(当時の私)からすると、話は聞いている
嫌なのだろうということはわかる。表面的にはやめる。
でもその意図や本質が汲み取れていない。
だから結果的に、
「その物事自体は控えることができるが、同じ根でつながった別の場所ではまた同じ種類の苦しみを与えてしまう」
ということが起こる。
ここまで聞くと普通は「嫌ならその都度言えばいいじゃん」で片付けられることなのだろうが、
相手にとってはそれが想像以上に苦痛なのだろうと今なら想像できる。
「嫌と言ってもやめてもらえない」の正体
相手が嫌がっていることを本質的にやめてあげられなかったのは、
これは単に
- 伝え方が悪い
- 境界線が弱い
- 相手が自己中
という相手の問題ではない。
私が「相手が嫌だと言っている“理由の層”に到達できていなかった」
これが本質だった。
言葉としての「嫌」は聞こえていた
でも、その「嫌」がどこから発生しているかを理解できない
だから、どんなに相手を思い遣っても「表面的な行動を変える」ことで精一杯になってしまう。
場合によっては相手の「嫌」を受け取ること自体がこちらにとって自己否定を伴う現実直視につながるため、
冗談・軽視・すり替え・なかったことにする、という処理でやり過ごしてしまう人もいる。
一般にはこれを共感不足によるすれ違いと捉える人もいるが、
私はこれは本質的には、解像度不足だったのだと思う。
② 「視点の解像度が高すぎる」ことによるすれ違い
この悩みを持つ人は一様に、相手を見抜くスキルを獲得しているように思う。
- 相手がどの層で反応しているか
- どこまでなら言葉が届くか
- どこから先は相手の意識に入らないか
が、話す前からほぼ正確に見えている。
だからこそ、
今のこの人には、言葉を尽くしても意味自体が伝わらないな
ということも見透かされている。
そしてこのタイプの人たちの多くは、
相手をコントロールしたり支配するという関わり方から卒業している。
そのため、
こちらが望むように距離を縮められない
という事態が起こる。
相手がこちらと距離を詰めてこないのは、諦めでも防衛でもなく、
こちらの意識がどこにあっているかが手に取るようにわかるが故の観測結果に基づいたもの。
距離を縮めるには自分の成長が必要不可欠
このタイプの人は、そもそもの人口が少ないので
出会えること自体が奇跡に近いと思っている。
なのでもし出会えたら、初見での自信喪失感に押しつぶされず、
自分を成長させてもらえる機会と認識して全力で自己成長にベットするのが1番賢い方法だと思っている。
相手の言葉の本質を受け取る
この視点の高さを持つ人と出会えた時にじゅうようになってくるのが、
相手の言葉の本質を受け取れているかどうかで関係を築けるかどうかが左右する
という意味を理解するかどうかだ。
例えば相手がこちらに何かをやめて欲しいと頼んだ時、
相手が嫌だと感じているのはこちらの行動そのものというよりも、その行動が起こる“心の構造”
その裏にあるこちらの前提自体に違和感を感じていることが本質だということだ
つまり、「表面的な言動や接し方に気をつける」では根本解決にならず
心の距離が縮めることは難しい。
相手の本意を受け取れないままだとどうなるのか
こちらが相手の真意を受け取れないままだとどうなるのか。
結果的にこちらは相手にとって、
- 嫌だと言っていることをやめてくれない人
- 嫌なことを毎回してくる加害者
になってしまうだろう。
相手は一時的に、境界線で距離感を調整することはできるが、
それは相当に相手に気を遣わせることになり、関係性の寿命は短くなるだろう。
相手と同じ進度で話せなければ、相手の我慢でのみ成り立つ関係になってしまう
「どうしても届かない」と感じる人と出会った時、それは自分よりも高い視点で物事を見ている人なのかもしれない。
そうである時、その出会いはとても貴重なものになる。
相手との関係性にもよるが、自分が成長の道を歩かないということは
「相手が歩幅を合わせてくれている間のみ成立する関係」ということになる。
当時の私はそう考えた。
では相手が私に歩幅を合わせてくれることをやめると何が起こるのか。きっと私は
- 相手の心を理解できない
- 永遠に話が噛み合わない
- どんどん距離が遠のく感じがする
という“どうしようもなさ”が露呈してしまったのではないだろうか。
「届かない」と感じる相手は、心の成長を促してくれる人物
人と関わるということは
心の構造と段階が近い者同士でしか
対等には成立しないのかもしれない。
これは冷たい考えでも、選民意識でもなく、人と人とのご縁の法則なのではないだろうか。
少なくとも私はその人との出会いから
その人と同じ高さで世界を見てみたいと願うようになり
生きづらさや人生のうまくいかなさ
自分自身を好きになれないどうしようもなさから解放させてもらえたように思う。
正直初めは、こんな惨めな思いをさせてくる相手を冷たいと思っていた。
その人を見て自信を失ってしまう私の気持ちを汲んで、目線を合わせて欲しいと願った。
しかし人生とは面白いもので
当時なかなかこの苦しみの正体がわからずに苦しんだがそれが功を奏した。
この意識階層による圧倒的な追いつかなさの感覚の正体を突き止めると
不思議なことに、同じ構造の中で苦しんでいる人と次々に出会うようになった。
人とは、人生のどこかで
自分を爆発的に飛躍させてくれる人と出会うようになっているのかもしれない。
そのタイミングで、自己成長の道を選ぶかどうかで
その後の見える景色が変わってくるのではないだろうか。
