《臨床心理士さんとの出来事の記事》
→適応障害の裏側①
→適応障害の裏側② カウンセラーさんは有資格者の方が安全?
→適応障害の裏側③カウンセラーの資格の有無よりも大切なのは
→適応障害の裏側④カウンセリングは大成功だった
自覚した信念
ここまで臨床心理士さんとの出来事を書いてきて、
自分の中の信念のようなものに気がついた。
「心理士の資格も持っていない私が、”自分の課題をクライアントの課題と混同させてしまうかも”と気がついたのに、なぜプロのあなたが気がつかないの?」
私は臨床心理士さんにこういう怒りを覚えたのだ。
自分の課題を投影するかもしれないという現実を軽視したまま人の心を軽く扱ってしまえる、そこにプロ意識を持たない前の職場の人たちに、悲しさを感じたのだ。
そしてその経験が
私にとって「心理士の資格の有無よりも、常に自分を振り返ることができるか?」という方がはるかに大事だという信念ができあがっていることに気づかせてもらえた。
書いたからこそわかった。
受け入れられないのは、自分が壊れていない証
こういう本音は、ずっと心の中にあった。
でも、世間では受け入れられないだろうと感じていた。
SNSではアンチコメントや、善意のアドバイスを受け取ることがある。読んでいるうちに、
ありがたい反面どんどん自分の意見がわからなくなっていく自分にも気づく。
あれ?私が感じたことって、間違ってるのかな?
自分の気持ちに正しいも間違いもないのに。
SNSを読んでいると、私からみて正しく見える人が、
「多数派の意見」で潰されている場面を何度も見た。
そういう場面を見ると最初は悲しかったけど、だんだんアホらしくなった。
SNSの群集心理とはそういうもの。
まだ向き合われていない個人の固定概念が強くて
人との依存関係を心の底で望んでいて
自分の嫌な部分を見たくなくて
自分には汚いところがないと信じている人が多くて
自分の考えていることが普通だと思っている人の方が多い世の中で
みんなが誰かに自己を投影している。
受け入れられることの方が難しいと思った。
受け入れられないのは、自分が壊れていない証だ。
集団に迎合せず、自分を保ち続けられている証だ。
私は私のままで生きていく
そう、ここまで書いていて思い出した。
私はもともとこういう人だった。
小学校の時に担任に「あなたみたいな正しい子って、嫌われるのよね」と言われていた。
この間の臨床心理士の先生も、その話をしたら同意見だと言っていた。
「あなたの昔の知り合いは、今の弱っているあなたを見たら喜ぶだろうね」って。
臨床心理士さんは、私に「このままだと彼氏と別れちゃいそうだね」と何度も言っていた。実際に別れた話をしたら、嬉しそうだった。
「私の不幸話をすると、人は喜ぶ」と子供の頃から信じていた。歪んだ私の固定概念。
久しぶりにそれを思い出させてくれた。
私を否定してくる人たちは、「先生」が多かった。
でも、この先生たちの口から出た言葉は、大衆心理なんだと思った。
私みたいな人間に出会った時に普通に湧く心理。
受け入れられたければ、自分を曲げるしかない。
自分の気持ちに嘘がつけない、そんな私を受け入れられない人が多かった。
それでは社会でやっていけなかった。だから、受け入れられたくて嘘をついたら、心を壊した。
もう、そのままの自分で生きていくしかない。
私は何て、自分に不誠実だったんだろうと思った。
自分の感覚
自分の本音よりも、社会で調和することばかりに気を取られていたから、
自分の意見への責任の持ち方を忘れてしまった。
この社会で、自分の意見に責任を持つ場面なんてほとんどないよね。
みんな「受け入れられそうな意見」を言っているだけ。
そんな世間の常識や倫理観のある意見が「自分の意見」だと自己暗示をかけて思い込んでしまっているだけ。
本当にこれは自分の意見なのか?
それともそう思い込んでいるだけか?
そう自分に問い直すことすら忘れてしまっているんだから。
自分の感覚に責任を持つってなんだっけ?
日本の政治家だってそうだよね。
「国民の皆さんが喜びそうな意見」を自分の意見として言っているだけなんだから、
自分の本音が伴っていなければ、責任なんて取れるはずがないのにね。
だから責任持って「辞める」
それ、責任じゃないでしょ?
責任放棄と責任の取り方がイコールになる、不思議な社会。
でも、私たちは怒れない。
だってそういう在り方を大衆心理で、集合意識で強いているんだから。
私たち一人ひとりが当事者なんだよ
自分の意見に責任を持つというのは、
自分の意見を「本音」から出すことだよ
自分の気持ちが伴っていなければ、最後までやり通せない。
自分の本音から意見が出れば、責任の取り方なんて考えて力まなくても
勝手に責任が取れるようになるのにね。